「ギャングスターパラダイス」 フレーバーテキスト作者、
 ラギーノ•フランクリン(如月 玲慈)氏 制作小説。

拷問屋


 拷問にもいくつかの種類がある。

 まずは相手の持っている情報を自白させるための物。  拷問の目的としては最も多い。

 次に単純に相手が憎く、痛めつける事自体が目的の物。

 これは仕事としては成立しにくく、大抵が当事者同士で行われる。

 主に素人が行うのでしばしば失敗してすぐに相手を絶命させてしまったり致命傷を与えてしまうことも多い。

 そしてもう一つ。

 自分たちに逆らったらどうなるか、見せしめとしての拷問。もちろん惨たらしく殺す事が求められる。

 なぜならば、誰かに『見せる』事が前提としてあるのだから。

※本作にはグロテスクで暴力的な表現が含まれます。問題ない方は続きへ。


「それじゃあ、頼んだぜ」

 声に合わせて薄暗い部屋に一人の男が姿を見せた。

 長身だが、とりわけて屈強そうに見えない。

 片手に古めかしい鞄を下げて、肉屋か魚屋が付けるようなエプロンをしてているあたり、どこかの商店からやってきたかのようでさえあった。

 部屋の中央で椅子に座っていた男がため息を付いて額の汗を拭おうとして――  出来なかった。

 なぜなら、彼はその椅子に頑丈なロープで手足を縛り付けられていたからだ。

「青瓢箪で安心したか? へへへ、こいつは拷問の専門家、とんでもないサド野郎なんだぜ」  ニヤリ、と男が意地の悪い笑みを浮かべた。

 拷問人の方もにやりと笑ってみせた。別段、凶悪というわけでもなく、ごく普通の笑みだった。

 そして、それが逆に不気味だった。

「俺たちのシマをうろうろ嗅ぎ回ってたからよ。ボコってやったんだが、何もゲロしやがら

ねえんだ」

 ずいぶんと曖昧な理由で他人を捕らえて暴行した男がしゃあしゃあと告げた。

 この男はこの辺りでは少しは知れた顔役だった。

 それだけの理由でだいたいの暴行は正当化されるし子分も付く。

「俺はただの旅行者だって言ってるだろ……。このへんがめずらしくって見て回って――

「うるせえ!」

 頬を殴りつけた。ただ力任せの一撃。

 血の混じった唾が床に飛んだ。

 拷問人はそれに動じることなく見つめていた。

「わ、わかった! 言う! 言うからやめてくれ!」  涙さえ混じらせ、男は一転して懇願した。

「あらら、悪ぃな。せっかく呼んだのにアンタの出番はなくなっちまったぜ」

「そうかい、残念だな」

 さほど残念そうでもなく、拷問人はあっさりと場を譲った。

「それで? お前はどこの回しモンだよ?」

「俺はフラッツ一家の舎弟なんだ……。兄貴達に言われてあんたらを探ってたんだよ」

「フラッツだと……? あのチンピラ共、俺達に喧嘩を売ろうってのか!?」

「詳しい日取りはしらねえけど、近い内に……おごっ!?」

 突然、拷問人が男の頬を掴んだ。ギリギリと爪が食い込み、わずかに血が滲む。  上顎と下顎が無理矢理に広げられて、涎と共に苦悶の声が漏れた。

「おい、待てよサド野郎! 痛めつけてぇならネタを全部聞いてからにしろよ!」  つかみかかるが、拷問人は少しも腕の力を緩めない。

「そいつがガセでもか?」

「なんだって……?」

「今言ったのは全部ウソだ。こいつは本当のことを言っていない」

「なにを根拠に言ってる!?」  拷問人はやっと手を離した。

 むせ込む男を見下ろしながら、

「長年のカンだ。こっちもプロなんでな」  と吐き捨てるように答えた。  

「せっかく呼ばれたんだ。俺に仕事をさせろ。それで何も使えるネタがなかったらさっきのを信じればいいさ」

 男はじろりと拷問人を睨みつけた。

「ただ痛めつけたいだけじゃねえのか。拷問人さんよぉ」

 拷問人はおくびにもださずに、古めかしい手提げ鞄の口を開いた。

 うっかり中をのぞき込んでしまった男はそれだけでうげぇと嫌な悲鳴を上げた。

「ああ、その通りさ。だから相手はお前さんでもいい。……付き合ってみるか?」  ひどく、ひどく嫌らしく拷問人は笑った。  

 うっかりその瞳をのぞき込んでしまった男は足下から登りくる怖気に身を震わせた。

 まるで、百足や蚰蜒が這っているかのように不快な眼だった。

「わかったよ、あんたに任せる」

 それだけ言うと男はそそくさと部屋を立ち去り乱暴に木戸を閉めた。

 関わりたくもないと言うように。

「さて、それじゃあ始めようか」

 拷問人は鞄からおかしな形の器具を取り出した。

 それはペンチやチェーンカッターに似ていた。だが挟む部分の片一方に丸い穴が開いている。

「質問だ。お前はどこに属してる?」

 裏手に縄で拘束された腕を取り、拷問人はむしろ穏やかな声で尋ねた。

……言っただろ、フラッツの兄貴だって! 本当だ! 信じてくれよ!」

「そうか」

 拷問人は穏やかな口調のままハサミに指を押しつけた。

左手の人差し指が穴にすっぽりと収まった。

 ハサミの刃は鋭利だった。触れただけで男の指から血がわずかににじむほどに。

「な……なにやってるんだ!?」

「本当か嘘かは関係ない。ただ、俺が嘘だと判断したらこうする」  ボトン、とだけ音が聞こえた。

 他にはなにもなかった。

 チョキンというある種、軽快な音も。

 肉を削ぐ濁った音も。

 ただ人差し指が汚れた床に落ち、第二関節より先がなくなった指からとめどなく血がこぼれ落ちた。

 悲鳴はあがらなかった。

 絶叫の瞬間、拷問人が男の舌をがっしりと捕まえていたからだ。  ぶぶぁ、ぶばぁ、と豚にも似た響きが室内に漏れた。

 それは嘔吐に変わり、ぐぼぇ、ぐげぇ、とさらに濁りを増した。

 拷問人は嘔吐にはまったく構わなかったが、自らの吐瀉物で溺れるよりも先に男の身体を床に転がした。

「お前の所属は?」

 手早くポケットから取り出した布で指の付け根をくるむようにしてきつく縛る。止血の為だ。

 ぐぶぇ、ぐぶ、と男の口が何かを呻いた。

 耳を近づけずとも、唇の動きと響きでその内容は理解出来る。同時に瞳の動きと言葉への反応、なによりも拷問人のカンが真実を嗅ぎとっていた。

「捜査官……だと。仲間は?」

 男は痛みにもだえたまま、ひいひいと呻いた。

「仲間は?」

 倒れたままの首元に、拷問人の足が乗せられた。固いブーツの底にゆっくりと力が込められていくたびに喉が潰れてぐびっ、ずびっ、と吐瀉物で満足に出来ない呼吸が不規則に乱れていく。

「いなっ! びない! おれ……だけ!」

 顔を見なくてもわかった。満足に動かせない首を左右に揺らし、くぴくぴと息を漏らす男の声には紛れもない真実があった。

「なるほどな。だが、そいつは嘘だ」

 乱暴に髪を掴まれ、頭を持ち上げられる。急激に解放された喉が空気を吸い込もうとごぶっ、と音を立てた。

 その瞬間、そっと、慈悲深い程にひんやりとした感触が喉に触れて走り去った。

「お前さんはオトリだな。本命は他にいる。すぐに口を割る雑魚じゃない。身内にも知らさ

れていない奴がな」

 ひとりごちる拷問人の声は男には聞こえてはいなかった。

 ぐっとそらされた顎の下からおびただしい量の血が吹き出していた。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけホースから飛び出る水のように散った血はすぐに勢いをなくした。それは致死量には十分すぎる量を吹き出していた。

 両の頸動脈を切断された男は一瞬の内に意識を失い、そして絶命した。     

 拷問人は男の額に手をやり、支えたままで、鞄から道具を取り出した。

 脅しの意味を込めてわざと錆だらけにしたノコギリ。

 切れ味は保証付きだが。

 当てるのは喉仏の少し上。血が流れ続ける傷の上に重ねるようにして刃を合わせる。

 しゅっ、と軽く擦る。ずくり、と肉をわずかに切り裂いて刃が食い込む。  しゅっ、ごりっ、ごりりっ。

 固い喉仏を避けて刃が進むごとにじわじわと血が滲み出て、感触が変わる。

 ゴリゴリとした筋肉と食道に到達した感触。

 さらに刃は進む。

 食道と気管を摩擦でずたずたに切り裂きながら、額の手には力が込められている。

 いかに弾力があり、強靱な首の筋肉でも刃と容赦のない膂力にはかなわない。

 刃が骨を切断するよりも前に、ぐしょりと控えめな音を立てて男の後頭部は背中に触れた。

 先に流れ出ていた血は既に勢いを無くしていた為、吹き出すようなことはない。

 だが、断面を染めながら止まることなくあふれ続け、男の身体と床を血の海に染めていた。

 半ばちぎれかかった断面はまさに『首の皮一枚で繋がっている』状態となっていた。

 ずさんな鑑識ではノコギリの傷跡に潰された致命傷にも気づかれないだろう。

 素人目には誰が見ても凄惨な死体に見える。

 見せしめには、これで充分だろう。

……しょうもない仕事だ」

 それは独り言に他ならない。この場でその言葉に答えられる者は、もういないのだから。      ※

 

「終わったぞ」

 外で煙草をふかしていた男に声をかける。足下の吸い殻はほんの数本。

「もう終わったのかよ。早いな」

 煙草をもみ消しながら、男は探るように顔を見た。

「奴はサツの犬だった。しかも仲間がいるらしい」

……ホントかよ!?」

 途端に男の顔色が変わった。

 ただの乱暴者から、凶暴なギャングのそれへと。

「だったらブッ殺して――

「もうやっておいた」

「なんだと! 勝手なことを!」

 つかみかからんばかりの男に拷問人はあくまで調子を崩さない。

「聞き出した時点でもう死にかけだったんでな。たっぷり楽しませてもらったよ」  そしてにやり、と嫌らしく笑った。

「けっ、サド野郎が!」

 吐き捨てて、男は部屋へと駆け込んで行き――すぐに「うげぇ」という悲鳴と共に飛び出してきた。

「仕事は済んだ。次はもっと骨のある奴にしてくれ」

 げえげえと胃の中の物を吐き出す男の背中に告げると、拷問人は夕暮れの町を歩き出した。

 いまならまだもうひとつの仕事に間に合うか、と考えつつも。

 

     ※

   

 今日もろくに客は来なかった。

 夕方から店を開けたこともあったが、それ以上にスラムにある強面の男ひとりの小さな花屋に客が来ること自体がめずらしいのだが。

 店先に出したパンジーの鉢を存外丁寧に仕舞い込みながら拷問人は今日の『仕事』の事を思い出していた。  

 つまらない仕事だった。

 どうしてもそんな考えが頭をよぎる。

 そもそも、彼はサディズムを信奉していない。

 脅しのため、サディストを演じることはあっても。  彼が拷問を行うのはそれしか生きる術を知らなかったからでもある。

 忌まわしき拷問人の家から出た彼が他人よりも優れている点は皮肉にも暴力と拷問の術だけだった。

 拒んでみても、チンピラどもの行う子供だましの暴力もどきを見ていると、関わらずにはいられなかった。

 そうして得た今の立場に彼は満足いっていなかった。

 表家業としてやっている客の来ない花屋の方がよほどマシというほどには。

 このまま売れない花屋でいられたら、と時折夢想することもあるが、そんなのは無理なこともわかっていた。

 手が止まっていることに気づいて鉢を持ち上げる。

 買い手のつかない花に愛着さえ湧いてしまいそうだ。

 彼が苦笑したとき、聞き慣れない音が聞こえた。

 店の横手、狭い路地から。

 人一人が通ればいっぱいの狭い道。

 食いつめ者がゴミを漁るにしても、ここには食べ物の類などはほとんどない。  

 無視しようかとも思ったが、今度ははっきりとうめき声のようなものが聞こえた。

「誰かいるのか」

 小さく声をかけてみた。

「見逃してくれねえか」

 どこか明るささえ感じる声が返ってきた。

 ちらりと見やったとき、路地に背を預ける男の姿が見えた。夕暮れの路地は暗く、顔さえもはっきりとは見えない。

 腹部に手をやり、壁にもたれかかる男は一見、酔っぱらいかなにかに見えた。

「手負いか」

 拷問人は一目で男の状態を見抜いた。腹部に当てた手は小刻みに震え、鮮血こそ溢れてはいないが、赤黒く滲んでいた。

「するどいね、アンタ……医者かい?」  男は明るい声色で今度は笑ってみせた。

「花屋だ」

「葬式用の花を用意するのは待って欲しいもんだな……

「生憎、売れない花屋なんでな。稼ぎ所は逃したくないんだ」

「ちがいないね」

 男はまた笑って見せた。

 拷問人の見立てでは、それなりに深い傷のはず。

 それなのに男は痛がるどころか笑って見せていた。

「ここで死ぬ気はないんだ。悪いが仕事にはならないぜ」  敵意がないことを察したのか、男は壁からわずかに身を離すと、ゆっくりと歩きだした。

 存外にしっかりとした足取り。  

 壁にも血の跡があった。背中も負傷しているらしい。

「おまえ、ギャングか?」

「ギャング志望のゴロツキってところさ。……そんなに立派に見えるかな?」

 声に震えも焦りもない。痛みはこの男の精神にいささかも影を落としてはいないようだった。だが、

 ――嘘だな。

 拷問人のカンがそう告げていた。

 目の前の男が何者であるかなどはわからない。

 だが、今の言葉からは確かな嘘の匂いを嗅ぎ取った。

「闇医者を紹介してやる。まっとうな傷じゃあるまい」

「ありがたいが、勘弁だな」

「死ぬぞ」

「医者は苦手なんだ。それこそビビッって死んじまうさ」  予想通りか、と拷問人は内心で嘆息した。

 この町の闇医者はすべからくギャングと繋がっている。(まっとうな医者の大部分もだが)そこにかかる人間の情報は筒抜けというわけだ。

「ならウチに寄っていけ。医者じゃないから平気だろう」

「花を見ても元気になれそうもないんだが……それとも肥料にでもするつもりかよ?」

「少しばかり医療の心得がある」

 それだけを告げると、拷問人は片づけ途中の鉢を持って、店内へと踵を返した。

「肩くらい貸してくれないのかよ。怪我人だぜ?」  言葉とは裏腹に声色に弱気はない。

「男とべたべたする趣味はないんでな」

「俺もさ。これでも故郷にハニーがいるんだぜ?」

「知るか、それとなるべく店内に血を落とすなよ。掃除が面倒だ」

「悪いが、ちょっと……無理かもな」

 腹部から流れ出ている血は手のひらの覆いを越えて足下までも続いている。とりどりの花が飾られた狭い店先から血の道が続いていく。

 店の奥はなんとも殺風景だった。

 廊下を照らすランプ以外には家具らしい家具もない。

 窓さえもなく、いくつかある部屋の扉も妙に頑丈そうな造りになっていた。

「花のひとつも飾ったらどうなんだ……

「売り物なんでな」

 素っ気なく言い放ちつつも、拷問人は一室へと案内する。中にはパイプベッドがひとつとテーブルがひとつ。

 私室というよりも病室や監禁部屋のような印象さえも受ける部屋。

「座って待ってろ」

 それだけを言うと、拷問人はさっさと部屋を出ていってしまった。

 この部屋は本来、尋問、あるいは拷問に使われる目的で用意された部屋だった。拷問には何日にも及ぶ物もめずらしくはない。

 長期間の拘束には、こういった場所が必要となる。  

 だが、依頼される『仕事』は相手を何日にも渡って拘束する必要のある物はなく、実際に使われたことはない。

 それが使われるのが拷問ではなく治療目的であるとはなんとも皮肉な話だったが。

 幸い、ひと仕事を終えたばかりなので手持ち鞄に必要そうな道具は一揃い入っていた。  拷問も治療も、そのどちらもが可能だった。

 いくつかの道具を加えたあと棚から一本、適当なワインの瓶を掴んで乱暴に栓を抜く。  拷問とは、相手をただ痛めつける術に長けていればいいというものではない。治療にもまた精通している。

 部屋に戻ると、男がぐったりと椅子に背を預けたまま苦笑してみせた。

「待たせるな……。うっかり死んじまうかと思ったぜ」「医者じゃないんでな。急患の用意なんかしていない」  ワインの瓶を突きつける。

「なんだこりゃ、花屋じゃなくて酒屋だったのかよ?」

「麻酔なんてもんはないからな。せめてものサービスだ」

「ありがたいこったぜ。腹の穴からこぼれちまわなきゃいいがね」  男は顔をしかめてカリフォルニアワインを直飲みする。

 コクの浅い、若いワインの味がした。本場のワインに太刀打ち出来るようになるにはまだ時間が必要そうだ。

 その間に拷問人は手早く鋏で男の服を切っていく。  

「背中のはかすっただけか」

「逃げるときにちっとな」

 言葉通り弾はかすめただけらしい。わずかに脂肪と肉がえぐれただけで済んでいる。銃弾が通りすぎたときに少しばかり火傷をして肉が傷口を隠すように盛り上がっているが、それもささやかなものだった。

「だが、こっちは少し厄介だぞ」

 ぐるりと回り込み、腹の傷口を見ながら拷問人はつぶやいた。

「幸い、傷自体は大したことはない。距離があったな?」

 とくとくとあふれ出る血を清潔な布で拭き清めながら、拷問人は傷口を観察した。

 向かって左側の下腹部に銃創がひとつ。  親指ほどの大きさの穴から血が流れ続けていた。弾丸は筋肉の層によって受け止められていて、内蔵にまでは達してはいない。そこは幸いというべきだろう。

 だが、体内に残された弾丸はわずかに身じろぎするだけでも激痛をもたらすはずだった。

 常人なら歩くどころか話をすることさえも難しい。

「いいニュースと悪いニュースがある」

「いいのだけ聞かせてくれ」

「いい方、傷は大したことない。悪い方、弾を抜かないといかないが麻酔がない」

「やっぱり聞くんじゃなかった」

 拷問人はベッドから皮のベルトを引っ張りだした。これも本来、拷問時に相手を固定するための道具。

「ベッドに寝ろ。弾を抜いてやる」

 男は素直にベッドに横になった。二本のベルトで手足を動かないように固定される間も動くことはなかった。

「聞き分けがいいんだな。だまされているとか考えなかったのか?」

 鞄から鈍い銀に光るメスと鉗子を取り出した拷問人はランプの炎でそれを丁寧にあぶって消毒していく。

「言われてみるとそうだな。でもまあ拷問するのが趣味でもない限りこんな面倒なことはしないだろうさ」

……まあ、そうだな」

 わずかに苦笑して拷問人は頷く。拷問は仕事であって趣味ではない。見ず知らずの男を捕まえて拷問を施す趣味はない。

 だが、見ず知らずの男を捕まえて治療を施そうとしている。これはいったいなんなのかと思うと苦笑が深くなる。

「処置を始める。痛いだろうが、なるべく暴れるな」

「遺言を言っとこうか。俺が死んだらハニーに花を届けてやってくれ」

「注文は?」

 傷口から溢れる血を濡れた布でぬぐいながら、拷問人は尋ねた。

「それぐらい察してくれ。花屋なんだろう?」

「知るか」

 丸い傷口は文字通り弾丸一つ分の大きさしかない。

 安い鉛弾は薄い脂肪の層を貫き、筋肉組織を焼きながら止まっている。   鍛えられた筋肉は文字通り最後の砦となって柔らかい内臓を守ったのだ。

 その筋肉にそって、拷問人はメスを素早く走らせた。

 吸い込まれるように刃は肉を裂き、先端がわずかに弾丸の尻を叩いた。血が赤い線を作りだしていく。

 がっ、と男のうめきと共に身体が揺さぶられた。  構わず左手の親指と人差し指で真新しい傷口を強引に開く。

 男が息を飲む音が聞こえた。   

 絶叫が響くよりも早く、血でぬるぬるになった弾丸を鉗子が掴んで引き抜いた。

 一瞬遅れて男がびくびく、と身体を震わせた。

 だが、予想していたような悲鳴はあがらなかった。

 ぎりぎりと歯を食いしばりながらも、苦痛に耐え抜いていた。

 拷問人は感嘆さえ覚えていた。

 覚悟を決めていたとはいえ、こうも耐え抜くとは思ってもみなかった。

 痛みの前にはさきほどまでの斜に構えた態度など呆気なく崩れ去ると思っていたのに。

 傷口を糸で縫う時でさえ、脂汗を背中に滴らせながらも男は悲鳴をあげなかった。

…………

 ――こいつを、拷問したい。

 そんな考えに気づいてはっとした。

 妙なサディズムは持っていないはずだったのに。

 強敵を前に闘志でも湧いたとでもいうのか。

 そんな考えをおくびにも出さす、拷問人はよどみない動きで包帯を巻いていく。

 ほどなく腹部と肩越しに包帯が巻かれると男は立ち上がろうとしてよろけた。

 その肩をがっしりと捕まえて、拷問人はベッドへと押し返した。

「無理するな。苦痛に耐えるということは思っている以上に体力を使う」  だが男は一度呼吸を整えると、立ち上がった。

 今度はふらついてさえいなかった。

「やることがあるんだ」

 その短い言葉には嘘がない。

 動かしがたい決意がはっきりとあった。

「そうか」

 だから、こちらの言葉も短いものとなった。

「世話になったな、ありがとう」

 ジャケットを肩から羽織り、男はゆっくりと背を向けた。

「なあ、アンタ。カタギじゃないだろ?」  背中越しに男が問いかけてきた。

 ――おまえもな。

 その言葉を飲み込んで、「器用な花屋ってだけさ」  と答えた。

「これからは怪我したら花屋に駆け込むことにするよ」  男はそのまま、ゆっくりと去っていった。

  

     ※   

  

 今日も花屋の客はさっぱりだった。

 あれから数日。

 依頼もなく、拷問人は暇を持て余していた。  

 拷問が閑古鳥なのはともかく、花屋の方はたまには客がきて欲しいものである。

 生活に困るわけではないが、どうにも張り合いがない。

 あたりが暗くなるまで粘ってみても、スラムに花を求める客などそういるものではなかった。

 誰しもが、その日の糧を得るのに精一杯なのだから。

 売り物の鉢を片づけて、店を閉めていると、数日前に拾ったあの男を思い出した。

 気骨のある男だった。

 どこかで捕まっているだろうか。

 それとも、無事に逃げおおせたか。

 きっと拷問を仕掛けたとしても苦戦するだろう。

 ギャング程度に口を割る男ではないという確信めいたものがあった。

 口を割らせるのは自分しかいない、と。

 その時を思うと不思議と気持ちが高ぶる。

 今までに感じたことがない奇妙な意欲が高まってきて仕方がない。

 拷問人ははぎ取るようにエプロンを外すと、戸締まりもそこそこに路地を抜けて繁華街へと歩き出した。

 路地をひとつ抜けるだけで町は途端に顔を変える。

 スラムが敗者の町ならば、この繁華街は勝者の町だ。

 とりどりの看板が欲望を現し、道行く人々がそれを満たす。酒、女、食い物、麻薬、ここではギャングが関わっていない物はない。

 それ故に、下手一つでいつスラムへと転落するかわからない町でもある。

 早々に酔っぱらった者を避け、客を引く女をあしらうと拷問人は迷い無く酒場の戸を開いた。

「いらっしゃいませ」

 店は若いチンピラたちがいくつかのグループを作って盛り上がっていた。だがマスターの声は静かだが不思議なほどによく通る。

 店の中にはテーブル席がいくつかと長いカウンターがひとつ。テーブルについているのは皆、若い男たちばかり。

 カウンターの端は無口な男が定位置としている。

 今日も酒を飲んでいるらしい。  適当に距離を取って座ると、マスターがカリフォルニアワインをグラスに注ぐ。

 注ぐのは一杯だけ、あとは勝手にやるのが彼の好むやり方だった。

 明るい色をしたワインを口に運ぶと、少しだけ逸る心が落ち着く気がした。

 見計らったように、マスターがチーズの皿を差し出す。 コクの強いチーズはワインによく合い、口中に染み入るようにワインの味を引き立てる。

 波立っていた心が少し落ち着くと、雑音にしか聞こえなかった若いチンピラ達の声がわずかに耳に届いた。

「新しいヤクってのはすげえらしいぜ?」

「この間のケンカでよ、相手をボコボコにして……

「トンマーゾさんがギャングスターを募集してるって……

 若いギャングたちの話はたいていチンピラ同士の抗争ばかり。興味の湧くものではなか

ったが――

「聞いたかよ、サツの犬野郎が捕まったらしいぜ」  

「いつの話だ?」

「三、四日前の話だってよ」

 不意に耳に聞こえたその話に、びくりと身体が震えた。

 拷問人は姿勢も変えず、無数の雑音の中からその話だけをしっかりと聞き取っていた。「手負いだった所を捕まえたらしいぜ。どっかからのネタで犬野郎ってことがわかってたらしくってよ。あ、これは俺のダチから聞いた話な」  へーっ、と感心の声を上げる仲間のチンピラたち。

 拷問人の手にしていたグラスに知らず、力がこもった。

「でよ、痛めつけてやっても口を割らないもんだから……アレを使うんだってよ」

「アレ?」

「新型のドラッグだよ、ドラッグ」

「すげえ依存性のあるやつだろ? 欲しけりゃしゃべれってわけかよ」  チンピラたちがどっ、と笑い合った。

 拷問人は一息にワインを呷る。

 ひどく苦い味がした。

 ヘドが出そうだった。

「もしも吐かなかったら禁断症状であっと言う間に廃人さ。もう手遅れかもなぁ」  ふたたびチンピラたちはげらげらと笑い出した。

 ワインの瓶に手をやり、直接口を付けた。喉の奥にどれだけ酒を流し込んでも、暗い炎を消せそうになかった。

  

     ※

  

 ボールのように蹴られた男が地べたに転がった。

 顔や頭をかばうこともなく、まるで人形のように倒れ伏す。

 そこをさらに数人の男達が殴打した。

 無理矢理に引き起こされ、腹を、顔を、股間を打ち据えられる。

 殴られる度に男は、ひっ、ぐひっ、と力なく息を漏らすのみだった。

 それをにやにやと見守るのは顔役の男だった。

 無抵抗な男を見て、彼は満足げに笑った。

 この町ではありふれたリンチの光景。

 違うところがあるとすれば、リンチしている男たちだけではなく、殴られている男までもがへらへらと笑っているところだった。

 涎を垂らし、夢を見るような目で焦点なく笑っていた。痛みさえも満足に感じてはいないようだった。

「へへへ……。サツの犬もこうなっちまえば赤ん坊と同じだな」

「ばぶばぶってか? ちがいねえ。ほれ、ばぶばぶとか言ってみろよ!」  倒れた男をなおも蹴る。

 血が弧を描く様に飛び、折れた歯が口元から転がる。

 男の口内はひどい有様だった。

 ほとんどの歯はへし折れ、溢れる血に息さえも満足に出来ない。

「おらよぉ!」

 無理矢理に身体を持ち上げられた。

 そのときに左腕が妙な方向にまがり、男がぐひぃ、と悲鳴をあげた。骨が折れている。

「聞いたか? ぐひっ、だってよぉ!」

 折れた腕をがっしりと掴んで振り回す。紫に変色した肘から奇妙な突起が見えた。

 折れた骨が皮膚を突き破らんと暴れているのだ。

「それよぉ!」

 ぐっと腕が引っ張られた。

 ぶつっ、と音が聞こえただろうか。

 肘からぎざぎざの突起が突き出た。

 じくじくと滲むように血が流れ出て、紫だった肘が色を無くしていく。

 うぉおおっ、と呻いて男はうずくまった。

「そろそろ殺っちまいますか? あんまり痛がらねぇんで面白くねぇんスよ」  

「おいおい、ずいぶん苦労して捕まえたんだぜ? あのサド野郎の情報がなかったら見つからなかったかもしれないくらいだからな」

 実際、この男を捕まえられたのは幸運、あるいは不運の産物だった。

 拷問人から得られた情報は仲間がいるということだけ。

 それが何者かなどわからなかったのだから。  だが彼らにとって幸運なことに、男は行方知れずになった仲間を探していた。

 それがとっくに拷問の末、始末されていることなど知らずに。もしそれがなければこの男の尻尾を掴むことなど出来なかっただろう。

 仲間の情報をちらつかせれば、男を捕らえることもそう難しいことではなかった。

 もちろん、凄惨な死体となった仲間と対面させて笑ってやったことは言うまでもない。

「手負いのクセにまだ俺たちの周りをチョロチョロしてやがるんだからな。アホだぜ」

 男を捕らえたときのことを思い出すと笑いがこみ上げてくる。なにがやり手の潜入員だ。

 ただのお人好しの馬鹿じゃないか。

「ま、我慢強いのは認めてやるがな」

 へっ、と心の底から馬鹿にした吐息を漏らした。   

 男は仲間の死を知ると、そこから一言も言葉を発しなかった。

 一日中殴り続けられても、指を反対側に折られても、ナイフで身体中に線を引いてやっても口を開くことはなかった。

「新型ドラッグの実験台になれるなんてラッキーな野郎だよ、まったく」

 倒れた男の腕を踏みつけたチンピラが体重を込める。既に砕けた肘の骨が直に踏みつけられて神経をぐしゃぐしゃに傷付ける。

 ぎおおっ、と男は獣めいた悲鳴をあげた。

 もう言葉にさえなっていなかった。

「禁断症状が強すぎるとこのザマか……。流すときはもっと薄めないと無理だな、やれやれ」  ドラッグ、と一口に言ってもその種類は膨大であり、その効果も未知の物が多い。海外から流れて来る麻薬の類は効果も依存性も強大だがその反面、リスクも高い。

 猛烈な快楽と反動が神経も理性も、心さえも壊してしまう。

 強烈な痛みさえもすぐに忘れてアヘアヘと笑う男には理性の欠片さえも残ってはいなさそうだった。

「もういいぜ、殺せ」

「へい」

 チンピラのひとりが懐から銃を抜いた。

 銃を向けられても男の態度に変わりはなかった。夢を見るようなうつろな目には何も映ってはいない。

「殺すなら、俺がもらってやる」   

 不意に声が聞こえたかと思うと、銃を持っていた指がぐっと掴まれていた。

……サド野郎!?」  ひとりが声をあげた。

 拷問人が音もなく立っていた。

 その目を見た途端、怖気が走った。

 依然、拷問を依頼したときも陰気なサド野郎だとは思っていた。だが、今の目はどうだ。  人の首をもいで返り血を浴びていたときよりもよほど凄惨な目をしていた。

「ああん? なんだってんだよ!」  

 だが、そんな気配に気づく繊細さなど持ち合わせてはいないチンピラのひとりが威嚇の声をあげた。

「そいつの言うとおりさ。俺はサド野郎だからな、いたぶる相手を探してたってことだ……

こんな風にな!」

 ためらいのない力で銃が捻られ引き金にかけた無防備な指がへし折られた。

 ぐげっ、とのけぞった途端、拷問人の膝が腹を打つ。

 たまらず銃を抜いた別のチンピラにくの字に折れ曲がったままゲロを吐く男を盾にする。

 一瞬、チンピラは銃を引いた。

 背後の相手に盾にした男を投げつけ、拷問人は一息に距離を詰めた。

 男の視界を手のひらが覆う。顔面を押さえつけられたあと、頭蓋が割れそうな勢いで壁に打ち付けられた。

 手を離すとずるずると崩れ落ちた。

「もらっていくぞ」

 残りのチンピラの怯えた顔を一瞥すると拷問人はかつての依頼主に告げた。

「好きにしろよ……。どうせそいつはイカれちまってんだからな。いくらも持ちゃしねえ」  

「関係ない。痛ぶって殺す」

「見境無しの狂犬野郎が。……血に飢えやがって」

 あうあう、とうわごとを漏らす男をじゃがいもの袋のように肩に乗せると拷問人は歩き出した。

 その顔は苦虫を噛み潰したように歪んでいた。

 

     ※

 

 その男はかつてこの部屋で治療を施した男だった。

 顔は同じでも人形のように脱力したその姿はそこに宿っていたはずの魂が抜けてしまったかのようだった。

 椅子へ座らせ、淡々と両手足をベルトで固定する。

 ボロ布のようになった衣服の隙間から、無数の痣と切り傷、そして弾丸を受けた腹部の傷が見えた。

 身体中にある傷に紛れてはいるが、その傷はさらに生々しく広がっていた。

 拷問を受けたとき、真っ先にいたぶられたのだろう。糸は抜かれ、こじ開けられたような傷口は薄い脂肪と黒く濁った筋肉の層が露出していた。

 傷口をいじれば痛かろう、そんな稚拙な意図が透けて見えるかのようだった。

 くだらない。  だが、これまで自分がやってきたこととどれほど違うのか。これから自分がやろうとしていることとどれほど違うのか。

「これからお前に質問する」

 スチールのラックに置かれたいくつもの道具を吟味しながら拷問人は静かにつぶやいた。

 そのおぞましい道具を見ても男の顔に変化はない。

 そのことにわずかに顔をしかめながら拷問人は続けた。

「質問内容は、お前が何者であるか、だ。所属、職種、仲間、調査内容を教えてもらおう」  本当は、そんなことはどうでもいい。

 誰が聞いているわけでもなく、誰に報告するわけでもない。それでもこんな形を取らないと自分の暴力を振るうことさえできないことが、ひどく滑稽だった。

 これから先振るわれるのは他の誰でもない、彼自身の暴力だというのに。

「答えろ」

 先が三本に分かれた鉄のカギ爪を腕に押しあてる。わずかに血がにじんで汚れたシャツに赤の点がついた。

…………

 男は何も感じていないかのように反応を返さない。

 いや、実際に痛みを感じてなどいないのかもしれない。

 ざっ、と爪が引かれた。

 シャツと腕を裂いて等間隔の線が引かれた。

 ぷつりぷつりと血が膨らみを作る。

 ここでやっと男は「ヒッ」と小さく声をあげた。

「答えろ」

 苛立ちに紛れて頬を叩いた。

 頭を激しくゆさぶられても男は「ヒッヒヒッ」と笑うかのような声をあげていた。

 脳を揺さぶられる感覚が逆にお気に召したらしい。

「気に入らん目だ」

 拷問人の左手が揺れ続ける顎をがっしりと掴んだ。

 かつて精悍な彩に溢れていた目はいまや濁った虚ろなガラス玉のようだった。

 棚から取りあげたスプーンの様な銀の器具。それは奇妙にすぼまって、丸く形を作っている。

 拷問人はそれをゆっくりと男の眼球に近づけた。

 片方の目は乱暴をされたときに腫れ上がってろくに見えていなかった。

 つっ、と銀の器具が眼窩に挿入された。

「おごっ!? おおおおっ……!」

 それは慎重な動きだった。まるで画家が細緻な部分を描くかのように、少しずつ、少しずつ器具が回されていく。  片手でがっしりとつかまれた頭はぴくりとも動くことができない。

 ただ男の身体が痙攣したようにびくりびくりと震えていた。

 それだけの動きだったが、器具の先端は一本、一本、視神経を切断していく。

 もしも男に景色が見えていたのなら、片方の世界は少しずつ彩を失って見えていたのだろうか。

 ぐるりと一回転したあと、器具は引き抜かれた。

 半ば潰れかけた眼球と共に。

 それを床に落とし、拷問人はブーツの底でぐじゅりと踏みにじった。

 眼球の油と血がぞろりとした神経の残滓に混じって床に染みていった。

「ぐぎがああああっ!」

 手を離した途端、獣じみた悲鳴があがった。

 それを拷問人はひどく冷めた目で見つめていた。  

「目玉はもう片方あるんだぜ……?」

 男はヒッと声をあげて、おこりのように震えだした。  恐怖。

 それは紛れもない、男が恐怖を思い出した瞬間だった。

「吐く気になったか?」

 尋ねてみても、男はあうあうと声にならない声を漏らすばかり。  

「そうか……強情な奴だ」

 答えないことなどわかっていた。

 答えがないことなどわかっていた。

 男は、もう知っていた男などではないのだから。

 麻薬が彼という人間の痛みも、尊厳も、魂さえも無くしてしまったのだから。

「ブーツは好みか? いいのがある」

 足先から膝にまで板が添えられた。それには上下に穴が開いており、二本のボルトを通して足を挟み込むようにして固定された。まさにブーツのように。

「少し大きかったな。サイズを合わせてやる」

 膝の側のボルトにハンドルが取り付けられた。持ち手を回すとぎりぎりと板が万力のように狭まっていく。

 もちろん、男の足ごと。

「ぎああああっ!?」

 濁った悲鳴にぎりぎりと万力がすぼまる音が重なっていく。やがて、  ぐじゅり。

 膝の皿が割れた。力はゆるまない。

 板が狭まる力に任せて、内側から骨の破片が皮膚を突き破り、まるで小便を漏らしたかのように板を濡らす。

「どうだ。お前が何者か少しは思い出したか?」  締めた板は戻さない。

 もしも戻せば解放された血管から血がふきだし、男は意識を失うだろう。

「あう……はう……

 男の瞳に光が戻ることはなかった。言葉らしい言葉を口にすることもない。

 もう、いっそのこと死なせてやった方がいいのではないだろうか。こんなことをやっていても、無意味なのではなかろうか。

 痛みを、人間らしい感覚を思い出させようなどとは。

「もうお前には飽きた。殺してやる」

 無慈悲なはずの言葉が、ここでは最も慈悲がある。

 苦痛から逃れるためなら人は死すらも選ぶ。

 だが、この男ならどうだっただろうか。

 あの意志に満ちた瞳なら。

 棚の上から鈍く光るメスを選んだ。

 人の肉を裂くに、最も適した道具。

 これで首なり手首なりの太い血管を切れば出血で楽に死ねる。

 これまでの傷で血が足りなくなっている男なら、もういくらも耐えきれないだろう。

 だが、

「楽に死ねると思うなよ」

 メスは腹に突き立てられた。

 刃は脂肪を、筋肉を貫通して、胃にさえも届いた。

 それをゆるく動かすと、ツンとする酸臭が腹からこぼれる。

 胃から流れ出た胃液と血と脂肪がどろどろに混じって床へと重くこぼれた。

「おげえ! おげええ!」

 文字通り身を裂かれる苦痛に男が身をよじって悶えた。

 胃液を漏らし、日に焼かれたミミズのようにのたくるその姿にはかつてこの部屋で不敵に笑っていた男の面影は欠片も存在していない。

 ――俺の負けか。

 もう、なんの情報さえも得られそうになかった。

 拷問は、無意味だったのだ。

 拷問人はもう一度メスを構え直した。

 今度こそ、首の動脈でも喉元でも切って楽にしてやるつもりだった。

 一歩、足を踏み出したとき、くしゃりと、奇妙な物を踏みつけた。

 それは、男の腹から胃液と共に出てきた物。

 黒ずんだ、くしゃくしゃになった固まりだった。

 つまみ上げて慎重に開いてみる。  胃液で半分溶けかけてはいたものの、それは確かに便箋だった。滲んだ文字はどこかの住所だろうか。

「これはなんだ?」

 そっと、それを男に見せた。

「ハ……ニー……

 男が小さくつぶやいた。

 初めての自発的な動きだった。

「すまない……結婚…………おくれ……る」

 片方だけ残されたその瞳は優しく細められていた。

 場違いに、慈しみさえも感じられる程に。

 まるで、その便箋を通して遠い誰かへと語りかけているかのようだった。

 苦痛に耐えるということは、尋常ではない。

 あたりまえに、ありふれた男が出来ることではないのだ。だが、この男は最後まで耐えてみせた。

 その心の支えになっていたものが、己の腹の内に隠した想いだったのだろう。

「おい! 言え! 情報を!」

 流れる血と共に男の顔からどんどんと生命が失われていくのがわかる。

 わずかに、ほんのわずかに己を取り戻した男はいま、その生命の炎を消そうとしているのだ。

「お前はなにがしたかったんだ!?」

 それは尋問というよりも懇願のようだった。  男はふっ、と笑った。

 全身を襲う苦痛の中で、あの夜と同じように。

「花を……届けてやって……くれないか……

 その言葉を最期に、男はがっくりとうなだれた。

……ふふ。……うわはははははっ!」

 拷問人は笑った。声を上げて大笑いを始めた。

 勝った。

 最後に、情報を引き出した。

 この勝負に勝ったのは俺だ。  

 男は麻薬によって廃人にされて死んだんじゃない。苛烈な拷問の末に殺されたんだ。

「ははははははっ! ははははははっ!」  拷問人は笑い続けた。

 残虐で冷徹な拷問人は、ただ笑い続けた。

 そうすることしか、彼には出来なかった。

  

     ※

 

 郵便配達を直に受け取るのは彼女の日課。

 この田舎町では郵便物の配達は週に一度しかこない。

 それでも大荷物にならないんじゃ商売上がったりさ、と老いた配達員はよく笑っていた。

 時刻は決まって午後二時頃。

 風の日も、雨の日も、その時刻になると配達員はボロの鞄を抱えてやってくる。

 今日も彼女はポストの前で立っていた。

 元々二人で暮らしていた部屋は今では少し広く感じてしまう。けれども、彼の今度の仕事が終われば引っ越すことになるだろう。

 三人か、あるいは四人ほどで暮らすには今の部屋は狭すぎることになるのだから。

 小さく微笑んでいると配達員の老人に笑われた。

「よう、なにかいいことがあったのかい?」

「これからあるのよ」

 彼女は手を差し出した。

 週に一度、最愛の男から届く手紙がそこにはあるはずだった。

「今日はオマケ付きだぞい」

 そう言って老人は鞄から小さなブーケを取り出した。  思わず「わあ」と声をあげてしまった。

 それは小さな花だけで作り上げられた花束だった。

 中心に桃色。それを取り囲むようにして真っ白な花が束ねられている。

 その可憐な花に彼女は顔を綻ばせて喜んだ。

「ほいよ、手紙だよ」

 その姿を微笑ましく眺めながら老人は彼女宛ての手紙を取り出した。

 「ありがとう」と言って受け取り、なにげなくその背に書かれた宛先に目をやる。

 「じゃあな」と老人は背を向けた。

 だから目にすることはなかった。

 花束にいくつもの涙がこぼれ落ちるのを。  桃色のカスミ草。

 宛先には見知らぬ男の名前が書かれていた。

 ただそれだけのことなのに、彼女は全てを察していた。

 ”拝啓、こうして筆を取ることにも大変に迷いました。けれども、私の知る限り最も勇敢な男について貴女にお知らせしたく、厚顔ながらもしたためます。まず、始めに私は貴女のかたきであり、彼の友などでは決してないということをお伝えいたします――”